辞書と訳語選択
つい昨日発売になった『通訳翻訳ジャーナル』10月号に、実務翻訳者である井口耕二さんのインタビュー記事が掲載されています。その中に「辞書を信じるは馬鹿、引かぬは大馬鹿」という、まさに調べ物の真髄につながる一言がありました。
そもそも辞書を引くことすらしない人は論外として、辞書を引けばそれでOKかというと、決してそんなことはありません。どんなに優れた辞書といえども、作っているのは人間です。誤植もあれば校正ミスもあります。
意外かもしれませんが、内容そのものが間違っている辞書や専門書は珍しくないのが現状です。あるいは、昔は正しかった訳語が今は不適切という事例もあります。特に飛躍的な進歩を遂げている科学技術分野では、翻訳者の調べ物を辞書だけでカバーするのは不可能だと言っても過言ではないでしょう。
さらに、同じことを示す単語であっても発注元によって好みの訳語に違いが出る場合もあります。語末音引き記号の有無(コンピュータとコンピューターなど)にはじまり、「エマルション」と「エマルジョン」、「フラグメント」と「断片」など、数え上げたらキリがありません。高い評価を得ている翻訳者は、こうした個別ケースともいえる違いに柔軟に対応しています。
以前、某翻訳関係誌の編集長から、取材をしていると自分の使っている辞書名すら口にしたがらない翻訳者がいると聞いたことがあります。同業者に辞書名を知られると仕事の奪い合い(競争)になると考えているそうですが、これなど辞書依存の端的な例でしょう。
実際には、本当に仕事のできる翻訳者であれば、何をどう公開したところで仕事が減ることなどあり得ないのです。彼らの発注元は特定の訳語を使っていることが理由で仕事を出しているわけではなく、言葉の選び方や表現力、文章の構成、訳註の付け方、さらには個別の要件に対する配慮など、複数の角度で総合的に翻訳者との信頼関係を築いているからです。
翻訳者としての成功を決めるのは辞書ではありません。どうすれば発注元に喜んでもらえるかを常に考え、そのために努力を惜しまない皆さん自身の姿勢です。プロの翻訳者に求められているのは、辞書に頼るのではなく、辞書を足がかりにして正しい訳語を見つけ出すという姿勢ではないでしょうか。
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