プロローグ
夏子はK短大の2年生。好きな講義は英米事情と英語学、好きなことはコミュニケーション。
英米事情の講義ではスペイン系アメリカ人の先生が現代の欧米の生活や流行などをおもしろおかしく話してくれる。Nice weather for ducks!!(毎日雨ばかりだねぇ)なんて大草原の小さな家に出てきそうな、古き良きアメリカを連想させる表現も交えてくれて、驚きと感動と興味で終始する。
一方英語学の方は、北欧の言語を操る教授とOld Englishを読む…教授は英語の語源に始まって他言語に派生した単語や表現に至るまで実に知識が豊富な人で、夏子の「言葉」に対する興味は膨らむ一方だった。
父親が外資系の企業に勤めていたこともあって、小さい頃から外国語に触れることは多かった上、中学校3年生の時には世界中に26人ものペンフレンドと毎日のように手紙のやりとりをしていた。外国語自体が身近な存在であったわけであるが、「ことば」そのものに興味を持ったのは短大時代のことだった。
そんな夏子にとって、大手企業の女性社員の一人になってしまうような就職は問題外。卒業を間近に控えた2月の末になっても就職先を決めずにいた。そしてある日のこと…。
3月4日 てんき![]()
「特許事務所に勤めてみる気はないかい?」フランス語のT教授だった。教授の知り合いの特許事務所で、外国出願事務を担当している女性が6月に退職するため引き継いでくれる人を募集しているというのだ。
夏子には特許事務所というキーワードすら初耳で、ましてやそこで働くことなど考えたこともなかった。でも、教授は夏子には向いている仕事だと強く薦めてくるし、どのようなところか知りもしないで断る気にもならなかったため、とりあえず面接だけでも受けてみることにした。
3月5日 てんき![]()
翌日、夏子は本屋に寄ると就職ガイドを探した。「特許事務所」なるものが一体どのようなところか知りたかったからだ。T教授は誰かが発明したものを特許庁に出願するときの窓口になるところだと教えてくれたが、夏子にはそれだけでは不十分だった。
自分がこれから面接を受けようとしているところは、どんな種類の仕事をするところなのだろうか?特許庁への出願というのは、具体的にどういったことをするのだろうか?この特許事務所という世界と語学とはどのように結びついているのだろうか…。

夏子は何冊かの本をパラパラとめくってみたが、分かったのは「弁理士」という職業があって、その人たちがやっている事務所が特許事務所だということくらいで、実際にどのようなところなのかはいまひとつピンとこなかった。
そこで、今度は資格試験ガイドから「弁理士」を探してみた。どうやら、弁理士というのは弁護士と似たような仕事で特許に関する仕事を請け負っているらしい…。それでもやはり、あまりにも知らないことだらけで、結局漠然としたイメージができあがったにすぎなかった。
3月26日 てんき
「あ〜あ、嫌な天気。せっかく新しいスーツを買ったのに雨なんて。」
特許事務所での面接当日、夏子は目を覚ますなり溜息をついた。
「でも、事務所は霞が関だっていうし、地下鉄を使えば濡れるところもあまりなさそうだからまぁいいわ。」
そんなことを考えながら夏子は朝食をすませ、身支度をすると家を出た。午前10時をすこしまわったところだった。
地下鉄を乗り継いで霞が関に着くと、夏子は教授と待ち合わせをした3番出口を探した。夏子が駅で周辺案内図を見ていると、
「すいませんが、お嬢さん」と、後ろの方から声がした。
「特許庁に行きたいんだがねぇ、道が分からなくなってしまって…。」
振り向くと、そこには60代くらいの男の人が立っていた。
「目が弱いもんで、地図を見てもようわからんて。探してもらえませんかのう。」
夏子は、案内図で「特許庁」という文字を探したが見つからなかった。
「おじいさん、ごめんなさい。この地図には書いてないのだけれど、私もこのあたりのことは全然知らなくて…。」
「そうかい、いや、いいんだよ。駅員にでも聞いてみるから。」そういうと男の人は改札口の方に向かって歩いて行った。
夏子は3番出口の場所を見つけ、その方向に歩いて行った。
3番出口のすぐ手前で、夏子はT教授の姿を見つけた。そして、教授に案内されて目的地のM&C特許事務所にやってきた。この事務所は霞が関の駅から歩いて3分ほどのところにあり、交通の便という点では言うことなしだった。
事務所に着くと、夏子たちは応接室に通された。コーヒーを運んできてくれた女性は普段着のような服装にかわいらしいエプロンをしていた。
「ここでは、こういう格好で仕事してもいいのかしら…」夏子はちょっぴり嬉しかった。大手企業で制服に身を包み、数え切れないくらいたくさんの社員の一人になってしまうことだけは絶対に嫌だと思っていたので、ちいさな事務所で普段着にエプロンというのは何となく親しみが持てた。
5分ほどすると、みたところ40代の前半というような男性が2人と女性が1人、そして他の3人よりはずっと若そうな女性が1人入ってきた。
「柴田夏子と申します。」
「松崎です。よろしく。」
「千葉です。」
差し出された名刺を見ると、松崎という名の男性の肩書きのところには「所長 弁理士」とあり、千葉のところには外国部技術長 弁理士」とあった。
「ふ〜ん、この人たちが弁理士さんなのね。」
弁理士という職業があること自体、つい数日前に知ったばかりだった夏子には、名刺に刷られた弁理士という文字が妙に新鮮だった。
「外国出願事務の塚本里美です。」
「同じく外国出願事務の山岡鞠恵です。」
続いて女性2人が名刺を差し出した。T教授からは、外国出願事務の人が辞めるから、その代わりで求人募集をしていると聞いていた。この2人のうちのどちらかがそうなのだろうか。そんなことを考えていると、
「うちの山岡は君の先輩なんだよ。」
松崎弁理士がそう言った。「彼女のときも教授に誰かいい人はいないかと頼んでね。そうしたら、この子がいいと紹介してくれて。K短大の4つ上の先輩なんだ。」
「あ、そうなんですか…。」
驚いている夏子に、
「ここはK短大のOGの集まりみたいなものなのよ。他にも、経理に1人と日本出願事務に1人いるから。」
鞠恵がそう言った。事務の女性は日本出願と外国出願あわせても6人しかいないのに、そのうち3人が夏子の先輩にあたることになる。そういう意味でも、夏子にとってはいい環境だった。
話しをしているうちに、夏子はふと、さっき駅で聞かれたことを思い出した。
「あの〜一つ伺ってもいいですか?特許庁のことで」
「いいよ、何だね?」松崎弁理士が言った。
「さっき駅で特許庁はどこかって聞かれたんです。駅の案内板を見たんですけど、特許庁っていう文字は見あたらなくて…このあたりにあるんですか?」
「ああ、見あたらなかったのも無理はないな。特許庁は通産省の別館の中に入っているんだよ。ここで仕事をするようになれば行くことも多くなると思うけど、出願の窓口なんかも通産省別館の1Fにある。」
夏子は、どうりで見つからないはずだと思った。特許庁が通産省の所轄だということも、このとき初めて知ったくらいだ。それと同時に、夏子は出願窓口というところに一度行ってみたいと思った。この事務所に入所すれば機会はありそうだし、環境や待遇にも不満はない。入ってみてもいいかな…そんな気持ちがわいてきた。
1時間ほど話しをした後、夏子はT教授と一緒に事務所を出た。面接の結果、採用してもらえるかどうかは分からなかったが、もし採用OKの返事がきたらこの事務所に勤めてみようとそう思っていた。
「ちょっと遠回りになるが」教授が言った。「通産省別館の前を通って行くかい?」
「ほんとですか?ぜひ。」夏子はわくわくした。官公庁のたぐいに行くのは初めてに等しい。小学校6年生の時に社会科見学で国会議事堂に行ったのが、似たようなものといえば似たようなものだが、いわゆる省庁は初めてだった。
通産省別館はM&C特許事務所から歩いて5,6分の距離のところにあった。入り口を見ても、特許の「と」の字も見あたらない。「ここに出願窓口があるなんて、知らなければ誰にも分からないわ…」夏子はそう思った。
「中まで入るのは、事務所の所員になってからかな。」T教授が言った。
「でも、まだ採用されるかどうか分かりませんし。私は行ってもいいなって思っているんですけど。」
「心配しなくても大丈夫だよ。あの感じだと採用OKだから。」
「そうですか?だといいんですけど。」
そんな話しをしながら、通産省の敷地内を横切って霞が関の駅に戻った。
雨はいつのまにかあがっていて、雲の切れ目から陽がさしてきていた。夏子は、またここに来ることがあるといいなと思いつつ、教授と一緒に地下鉄の階段をおりていった。