夏子ちゃん、特許事務所に入所!
4日後の3月30日、M&C特許事務所から夏子の自宅に郵便が届いた。封を開けると、中には採用決定通知書が入っていた。
「お母さん、わたし採用されたみたい。」
「そう、よかったじゃない。お母さんも特許事務所なんて全然知らなかったけど、新しいもの好きの夏子にはちょうどいいかもしれないわね。」母はそういって笑った。
「ねぇ、お母さん。私が大企業に就職しなかったこと、何とも思ってない?」
「思ってないわよ。夏子がK短大を選んだときには、あの学校なら一流企業になんて考えたことがなかったわけじゃないけど、でも夏子にはそういうとところはきっと長続きしないのよね。」
「多分ね。まぁ、入ったら1年くらいは我慢してたかもしれないけど、どっちにしてもきっとそのくらいで嫌になっちゃって留学するとか言い出しちゃうんだろうし、とりあえずこれでよかったのかなぁなんて思ってる。」
「とりあえずなんて言ってないで、頑張りなさいよ。」
「はいはい、大丈夫。とっても楽しみにしてるから。」夏子はそう言うと自分の部屋に戻った。
4月3日 てんき![]()
入所式の当日、夏子は約束の時間より10分早くM&C事務所に着いた。ただ待っているだけでは退屈だろうと言って、塚本が事務所の中をひととおり案内してくれた。明細書技術者はこのグループ、外国の方式はこちら、日本の方式は向こう…と教えてくれるのだが、夏子には言葉自体がピンとこなかった。
「あの、明細書技術者って何ですか?」
「明細書っていうのはね、発明者が何かを発明したときに、それを特許庁に出せるような形にした書類のことで、その書類を作るのが明細書技術者よ。特許庁に出す書類には書かなければいけないことがいくつかあって、その形式に合わせて書くのが仕事なの。特許事務所は、企業の特許部から仕事を受けることが多いのだけど、発明者は特許部の人ではなくて研究開発部門の人だったりするの。大きな会社だと、発明者の発明を特許部である程度整えてきてくれるから楽なんだけど、そうでないときは、A4版で1枚くらいの原稿から10ページ前後の書類にしなければならないこともあるのよ。」
「そういうときって、どうやって書くんですか?」夏子は聞いた。
「発明者のところまで話しを聞きに行って、いろいろ教えてもらってきて書くことが多いかしら。もっとも、それでもなかなかうまく伝わらなくて、何度も何度もやりとりしながらなんてこともあるけれどね。」
「ふ〜ん、そうなんですか。」夏子はちょっと驚いた。「あ、それと、方式って何ですか?」
「一言でいえば事務のことよ。日本の方式っていったら国内への出願事務で、外国の方式っていえば海外への出願事務を扱うの。夏子ちゃんが配属されるのは、外国の方式。」
そんな話しをしながら事務所のなかを一巡し、最後に会議室にやってきた。夏子と塚本が会議室までやってくると、時計はちょうど10時をさしていた。
「入所式をはじめるぞ!」
遠くで松崎弁理士の声がした。そして、ほどなくして所員が次々と会議室にやってきた。1人、2人、3人…夏子は興味で数えてみたのだが、あまりの数に途中で分からなくなってしまった。後で聞いたら36人だそうだが、それだけの人数が6畳あるかないかという会議室に集まったので部屋の温度は次第にあがり、所長の挨拶が終わるころには夏子の額には汗がにじんでいた。
「だからスーツは嫌いなのよね。」夏子は心の中でそう思った。以前、保母をしている友人から「子供1人60ワット」というようなことを聞いたことがあるが、大人1人だってその半分くらいはありそうだ。友人は、子供が部屋の中で暴れると夏はエアコン3機あっても暑いけど、冬は暖房費の節約になるわよと笑っていたが、大人だってこの人数になれば、十分光熱費に影響するのではと考えたりもした。そんなことを思っていると、
「柴田君に一言挨拶してもらおうか。」松崎弁理士だった。
「柴田夏子です。大手企業に就職するのが嫌で迷っていたところに、この事務所を紹介されました。特許のことは何も知りませんし、教えて頂くことばかりだと思いますが、頑張りますので皆さん宜しくお願い致します。」
夏子が頭を下げると、「英語、期待してるからね」と、技術者から声があがった。「K短大なんでしょ。君の先輩たちもみんな英語が堪能だし。よろしくな。」
「あ、語学は好きですけど、最初はちゃんと教えて下さい。」
「だいじょぶ、だいじょぶ。何とかなるって。さて、最後に記念写真を撮ろうか。」
技術の方から声があがり、一同で写真を3枚撮った。
「じゃあ、みんな仕事に戻って。」松崎弁理士の声で、入所式は終わった。
会議室からでると、廊下の空気がひんやりと心地よかった。