特許事務所での新発見(1)
4月5日 てんき 
「おはようございま〜す。」
「あ、夏子ちゃん、いいタイミング!」山岡だった。
「何ですか?」
「昨日、外国から山積みのレターが届いていたの。夕方だったからそのままにしておいたんだけど、これを処理して欲しいの。ためちゃうと大変だから。」
「それって、私でも大丈夫なものなんですか?」夏子はちょっぴり不安だった。
「平気、平気。夏子ちゃん英語読めるでしょ?」
「普通の英語なら何とかなりますけど…でも、特許の世界で使われる英語は分からないですよ。」
「レターだから大丈夫よ。分からないことがあったら聞いてくれればいいし。」
そういうと、山岡は夏子の机の上に昨日届いたばかりのエアメールを乗せた。
「まずはこれを開封して種類別に分けてね。それで、このノートに、どこから来た何の書類か書いていって。」
夏子はドキドキしながら、封筒にハサミをいれて中から手紙をとり出した。
Re: ST-998 Official Filing
Receipt。手紙にはそう書いてあった。いきなり分からない内容である。
「あの〜山岡さん。Official Filing
Receiptって、何ですか?」
「日本から外国に出願すると、外国の特許庁でファイルしてくれて出願番号が付くの。この"ファイルしましたよ"っていう受領書みたいなものが、Official
Filing Receipt。一緒にSerial
Numberのお知らせカードみたいなのが付いているでしょう?」
言われて封筒の中を覗くと、小さな四角いカードが入っていた。Serial
Numberは出願番号のことで、そこに書いてある08/123456っていうのが米国特許庁への出願番号なのよ。そういうレターは特に処理する必要はないから、うちの控え用にコピーを一部とったら発明者に送ってあげて。ST-998っていうのは、うちのファイル番号。」
「これは、コピーをとって送るだけ、っと。」夏子はレターを脇によけた。
次のレターを開封すると今度はFirst Office
Actionというものが入っていた。また分からない。夏子は辞書でactionを引いてみた。[法律]とついて「訴訟」という意味が載っていたが、どうも違うような気がした。
「山岡さん、またなんですけど、Office
Actionって何ですか?」
「特許庁からの拒絶理由通知のこと。出願しても必ずしも特許になるとは限らなくて、特許庁で審査官が審査をするんだけど、似たような技術があったりすると、"このままじゃ特許にできませんねぇ"って言って拒絶してくるの。それが拒絶理由通知。」
「出せば特許になるってわけじゃあないんですね?」
「そんなに何でもかんでも特許にしてたら、収集つかなくなっちゃうわよ。」山岡は笑いながら、そばの引き出しから紙を出してきた。
「Office
Actionが来たら、発明者に回答してもらわなきゃならないから技術担当にまわすの。この紙とセットね。あとでちゃんと教えてあげるから、とりあえず"技術者行き"の方に分類してよけておいて。」
夏子は言われた通りにした。
こうして一通り封筒を開封し、コピーをとるだけのものと技術者にまわすものとを分けた。ノートには、日付と書類の内容、差出人を記帳した。時計を見ると、もうお昼休みの時間だった。
「夏子ちゃん、続きは後でいいわよ。一緒にお昼にしましょう。」
「でも、この手紙の山って、このままでいいんですか?」
「上に何か乗せて飛ばないようにしておいてくれればいいわよ。これからそんなの毎日のことになるから、そのたびに片づけ終わるまでお昼を我慢してなんていられなくなるわ。」
夏子はホチキスや穴開けパンチを手紙の山の上に乗せると、山岡と一緒に食事の支度をはじめた。

昼休みが終わって窓の外を眺めると、雨はさっきよりも強く降っていた。これだけの降りになると傘があってもあまり意味がない。夏子たち女性陣は会議室でお弁当を広げていたので雨に濡れることはなかったが、外食をして戻ってきた技術者はみなずぶぬれだった。あまりにかわいそうになった夏子は、技術グループの方に行って「あたたかい珈琲でもいれましょうか?」と声をかけた。4月とはいえ、あれだけ濡れると結構寒いだろうと思ったからだ。
「いいね、なっちゃん。」
「僕ももらおうかな。」
「こっちも頼むよ。」
次々と声があがった。夏子は給湯室から大きなトレーを持ってくると技術グループをまわって珈琲カップを回収した。この事務所では各個人が自分のカップを持っていて、普段はセルフサービスで珈琲やお茶をついでいる。女性陣の仕事は、来客時にお茶を出すことと時々お茶の葉や珈琲を入れ換えることくらいで、こうしてまとめて珈琲をサービスすることなど滅多にない。だからなのか、滅多に珈琲など飲まない技術者までもがカップを差し出した。夏子は、「お砂糖、ミルクがいる方は?」と聞いた。
「僕はミルク。」
「僕のは砂糖多めにしてくれる?」
またリクエストの嵐だった。
「夏子ちゃん、すっかり人気者ね。でも全部覚えられる?」山岡だった。
「今のところ、大丈夫みたいです。」
「そう、それならいいけど。技術の人たちって、わがままでしょう?」山岡は、ちらっと技術グループの方を見て笑いながら言った。「ついでと言っちゃ悪いんだけど、松崎先生にもいれてあげてくれる?今は自分のお部屋にいるみたいだから。」
「もってっちゃっていいんですか?」
「いい、いい。喜ぶわよ、きっと。松崎先生は珈琲うすめね。みんなの分をいれてから、最後にお湯を少しだけ足してあげるといいみたい。」
「あ、わかりました。」
夏子は、みんなからのリクエストを忘れないうちに早くやってしまおうと、カップを持って珈琲を入れにいった。
「えっと、このカップがミルクで、これがブラックで…。」
全部入れ終わると、夏子は急に重くなったトレーを持って技術グループに戻った。
「この緑のカップはどなたでしたっけ?」
「あ、こっちこっち。」
「このかわいいキツネちゃんがついたカップは?」
「ここだよ。夏子ちゃん、大丈夫かい?ミルクと砂糖。」夏子がいちいち誰のカップだか訊ねるので、ブラックを頼んでいたのに砂糖がはいってきやしないかと、心配になったようだ。ミルクが入っているかいないかは一目見れば分かるが、砂糖はそうはいかない。
「それは大丈夫です。ちゃんと覚えて行きましたから。どなたのカップなのかお名前とカップとは全然結びついていないんですけど、珈琲の好みとカップは完全に結びついてます。」
「なっちゃんに早く名前を覚えてもらってデートにでも誘おうと思ってたのに、よりによって珈琲カップなんかに先を越されるなんて!」
技術グループから笑い声があがった。
「さて、この山をやっつけちゃいましょうか。」夏子は自分の机に戻ってそう思った。山岡に教えてもらったことは、全て自分専用の小さなノートに書いておいたが、午前中だけでもう3ページ半にもなっていた。忙しい山岡に何度も同じことを聞かなくてすむようにと軽い気持ちで書きとめていただけなのに、改めて見直すと量の多さに驚いたりもする。
「特許業界って、やっぱり私の知らなかったことだらけだわ。」そんなことを考えながら、まずはコピーを取るだけの束を全部一部ずつコピーした。
「山岡さん、コピー取ったら次はどうするんですか?」
「オリジナルをお客さんに送って、コピーの方はほうたいに入れて保管しておくのよ。」
「包帯?」そんなわけないか、と夏子は思った。
「ほうたいっていうのは、こういう袋のこと。」そういうと、山岡は自分の脇に積んであった黄色いまち付き封筒を見せてくれた。「包むっていう字と袋っていう字を書いて包袋っていうのよ。さっきもちょっと話したけど、出願してもすぐに権利化されるわけじゃないから、
各件ごとに別々の袋に入れて書類を保管しておくの。権利になるまでのあいだには色々なものが送られてくるし、後で探しやすいように最初から分けて番号順にしまっておくのよ。」
山岡が見せてくれた黄色い袋は、厚さが3cmくらいでパンパンに膨らんでいた。
「そんなにいっぱいになっちゃうんですか?」夏子は興味で聞いてみた。
「そう、日本出願の場合は1件でこんなになることはまずないけど外国の場合は普通よ。時には5cmくらいの厚さで2袋とか3袋とかになってしまうこともあるくらい。牧野さんの机なんて、すごいでしょ?」
言われて、技術担当の牧野浩二の机を見ると、ピンク色のリボンで束ねた袋がいくつも乗っていた。
「あの件はとくに長くやってて、もう5年くらいになるの。何度も何度もやり取りが発生しているから、いつのまにか膨れあがっているのよ。」
「ふ〜ん、大変なんだ。」と、夏子は思った。
「そのうち、時間があったら既に権利化されて終わった件の包袋の中を見てみるといいわ。出願から権利化までの間に、どんなやり取りが発生しているのか分かると思うから。終わった件はこっちにしまってあるのよ。」
山岡は夏子を事務所の隅に連れていった。そこには、段ボールの箱にきちんと並べられた黄色い袋がたくさんあった。
「同じ番号がついているのは元の日本出願が同じで別々の国に出したものなの。例えば、このGT-103っていうのは袋が4つあるでしょ?ただ単にGT-103って書いてあるのが、各国共通の書類ね。例えばオリジナルの明細書とか、そういうのはここ。番号の下に赤いビニールテープが貼ってあるのは、アメリカへの出願で、緑がドイツ。黄色がフランスで、青はイギリス。その他の国は、番号の下に国名を書くようにしているのよ。」
「その下にある、KnobbeとかPizzeyとかっていうのは何ですか?」
「あ、それは代理人の名前。さっき、レターの整理をして帳簿に差出人を書いてもらったでしょう。あの、差出人になっているところが現地代理人なの。発明の内容なんかによって使う代理人も違うから、どこの代理人か包袋にも書いてあるのよ。」
夏子には全てが新しいことばかりだった。